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惑星ソラリス(映画)ネタバレ評価|あらすじ・どんな話?最後(ラスト)の結末・意味は?

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壮大なSFの皮を被った「愛と記憶の極限ドラマ」:タルコフスキー『惑星ソラリス』徹底考察

アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(1972年)について調べている皆さんは、おそらくこの作品がただの宇宙SFではないという噂を耳にしていることでしょう。

これは、宇宙の果てで繰り広げられる、人間の記憶、罪、そして「愛とは何か」という根源的な問いを突きつける、まさに”観る哲学書”です。

私自身、この映画を初めて観た時は、その重厚なテンポに戸惑いつつも、観終わった後には数日間、頭から離れないほどの強烈な体験をしました。

もしあなたがハリウッド的なスペクタクルを求めているなら、少し構える必要があるかもしれませんが、人生を変えるかもしれない内省的な旅に出る準備はできていますか?

この傑作の核心を、ネタバレ込みでじっくりと解説していきますね。

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惑星ソラリス(映画)ネタバレ|あらすじ・どんな話?

■記憶と罪が具現化する物語(あらすじ)

物語は、主人公である心理学者クリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)が、地球を離れる前の故郷の自然の中で過ごすシーンから始まります。

この長い地球パートは、後の宇宙ステーションでの無機質な空間と対照をなす重要な導入です。

ケルヴィンは、知性を持つ巨大な海に覆われた惑星ソラリスを周回する宇宙ステーションへと派遣されます。

長期間の調査が行き詰まり、クルーの間に異常な現象が起きているため、ケルヴィンはその調査の継続是非を判断しに行くのです。

ステーションに到着すると、雰囲気は荒廃しており、彼の友人の科学者ギバリャンはすでに自殺していました。

残る二人のクルー、スナウトとサルトリウスも、極度のパラノイアに陥り、何かを隠している様子です。

ケルヴィンは、クルーたちが「ゲスト」や「訪問者」と呼ぶ、いるはずのない人影を船内で見かけるようになります。

この時点で、観客はソラリスの海が、人間の深層心理や記憶を読み取り、それを物質化して送り込んでいることを理解し始めます。

惑星ソラリス(映画)ネタバレ|ストーリー

■「亡き妻」との再会がもたらす極限の葛藤(終盤までの展開)

そしてケルヴィン自身の身にも、その異変は訪れます。

ある朝、彼は部屋で亡き妻ハリー(ナタリヤ・ボンダルチュク)の姿を発見するのです。

ハリーは、ケルヴィンとの諍いの末に10年前に自殺したはずでした。

このハリーの複製(レプリカ)は、当時の彼女と寸分違わぬ姿をしており、ケルヴィンが持参した古い写真と同じ服を着ています。

しかし、彼女の服の背中にある紐の穴が機能していなかったり、彼女自身が「自分には生きた経験としての記憶がない」と気づき始めたりする点が、彼女が不完全な構築物であることを示しています。

驚愕と恐怖に駆られたケルヴィンは、一度、彼女を小型ロケットに乗せて宇宙に射出するという異常な行動に出ますが、翌朝、ハリーは再び彼の部屋に現れてしまいます。

この瞬間、ケルヴィンは自分の記憶、特に妻を自殺に追い込んだという拭いきれない罪の意識から逃れられないことを思い知らされるのです。

彼は再来したハリーを受け入れ、次第にこの複製に愛着を抱くようになります。

ハリーは、自分が本物の人間ではないこと、そしてケルヴィンの記憶の産物に過ぎないことに深く苦悩し、絶望から液体酸素を飲んで再び自殺を図りますが、瞬く間に凍結した体は痙攣しながら蘇生します。

この、愛する人が苦しみながらも死ねないという「ファウスト的な運命」を目の当たりにするシーンは、観る者の心に激しい動揺を与えます。

宇宙ステーション内の図書室で、ケルヴィンとハリー、そして他の科学者たちが無重力状態で漂う幻想的なシーンがあるのですが、バッハの荘厳な音楽が流れる中で、彼らがこの世の価値観から解き放たれ、自分たちの内面に深く向き合わされる「聖堂」として描かれているように感じます。

惑星ソラリス(映画)ネタバレ|最後(ラスト)の結末・意味は?

■永遠の郷愁か、それとも現実の否定か(最後の結末)

ハリーは、自分がケルヴィンを苦悩させていると悟り、彼を解放するために、自らの意志で他の科学者たちに頼み込んで自身を消滅させる道を選びます

愛するものの自己犠牲という、これ以上ない悲劇的な選択を経て、ケルヴィンはステーションに一人取り残され、地球へ帰還するかソラリスに留まるかの決断を迫られます。

そして迎えるラストシーンは、タルコフスキー作品の中でも最も有名で、深く解釈を呼ぶ結末です。

ケルヴィンは、映画の冒頭で見た、緑豊かで懐かしい地球の父の家に戻ったように見えます。

彼は父親(ニコライ・グリンコ)を見つけ、跪いてその足に抱きつきます。

一見、これは苦悩から解放され、故郷の愛へと回帰した救いのシーンに見えるでしょう。

しかし、ここでタルコフスキーは一瞬の違和感を挟みます。

家の中に、静かに雨が降っているのです

カメラがゆっくりと引いていくと、その家とケルヴィン、そして父親が立っている場所が、実は地球ではなく、ソラリスの海の上に形成された小さな人工の島であることが判明します。

この結末は、ケルヴィンが、愛と罪の記憶という自らの内面的な世界に完全に囚われてしまったことを示唆しています。

ソラリスは、ケルヴィンが最も望む「故郷」のイメージを具現化しましたが、それは現実ではなく、記憶の複製という名の幻想です。

彼は真の地球への帰還よりも、複製された安らぎを選んだのか、あるいは、真の現実と区別がつかない場所で、最も愛しい人(父)と再会し、ついに心の平和を見出したのか。

タルコフスキーは明確な答えを与えず、この「鏡」のような結末を観客に投げかけます。

私は、この結末を観るたびに、現実の愛もまた、自分自身の記憶や期待の反映に過ぎないという、強烈な皮肉と美しさの二重構造を感じ、ゾクゾクします。

惑星ソラリス(映画)|評価レビュー

■なぜ今もSF映画の金字塔なのか(評価)

『惑星ソラリス』は、公開直後の1972年カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞し、タルコフスキーの名を世界に轟かせました。

しばしばスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968年)と対比されますが、タルコフスキーは『2001年』を「技術的な発明に焦点を当てた浅薄な作品」と批判し、自身の作品では人間の精神的、感情的な深さを探求しようとしました。

原作者であるポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは、タルコフスキーのこの解釈を好まず、「これは『ソラリス』ではなく『罪と罰』だ」と述べています。

レムの原作が「未知の異生命体との意思疎通の限界」という科学的な問いに焦点を当てていたのに対し、タルコフスキーは「宇宙探査が人間の魂に与える影響」という、より個人的で内省的なドラマにシフトさせたからです。

しかし、映画批評家ロジャー・エバートが指摘するように、本作はアクション映画ではなく「思慮深く、深く、繊細な映画」であり、人間の本質を検証するためにSFの自由度を利用しているのです。

上映時間165分という長さと遅いペースは、観客に忍耐を要求しますが、その分、観客を「恍惚と瞑想のゾーン」に引き込み、観る者の心に長く残り続ける力を持っています。

まとめ

『惑星ソラリス』は、2002年にスティーヴン・ソダーバーグ監督とジョージ・クルーニー主演でハリウッドリメイクされましたが、ソダーバーグ版が99分と大幅に短く、より恋愛ドラマに焦点を当てたのに対し、タルコフスキー版の「重さ」と「深み」は唯一無二です。

この作品は、今なお「史上最高のSF映画の一つ」として頻繁に挙げられており、映画という芸術の到達点の一つとして、挑戦的な観客に愛され続けているのです。

鑑賞後はきっと、「自分にとってのソラリスの海は何だろう」と考えてしまうはずですよ。

最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

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