ついに、その時が来てしまいましたね。
J1復帰を果たした清水エスパルスの象徴、山原怜音選手が川崎フロンターレへ完全移籍することが2025年12月22日に発表されました。
SNS上では「約束の時間」という言葉が飛び交い、多くのサポーターが覚悟しながらも、その喪失感に胸を痛めているのが伝わってきます。
僕も一人のサッカー好きとして、彼が静岡の地でどれだけ愛され、泥臭く、かつ華麗に戦ってきたかを知っているだけに、この移籍には特別な感慨を抱かずにはいられません。
今回は、新天地へと旅立つ山原選手について、これまでの歩みや知られざる素顔を、Wikipediaよりも詳しく、情熱を込めてお届けします。
山原怜音|川崎フロンターレ移籍へ!
■川崎移籍の舞台裏
今回の移籍は、単なる戦力補強以上の意味をJリーグ全体に与えています。
川崎フロンターレは、長谷部茂利新監督のもとで再建を図る中、今オフに主力級を次々と獲得する本気の補強を見せており、山原選手はその「4人目の切り札」として迎え入れられました。
山原選手自身、プロ入りから5年間を過ごした清水への愛着は深く、特別指定選手としてのデビューからJ2降格、そしてJ1復帰までを共にした日々を「誇りに思う」と涙ながらの感謝を綴っています。
一度は自分の力不足で降格させてしまったクラブを、再びJ1の舞台に戻せたことが、彼にとって最大の喜びだったのでしょう。
それでも、26歳というキャリアのピークを前に、ACLやタイトルを争う環境で自らを高めたいという「強い覚悟」が、今回の決断を後押ししたのだと感じます。
山原怜音|プロフィール、年齢・身長は?
山原選手は、1999年6月8日に京都府京都市で産声を上げました。
身長165cm、体重66kgと小柄な体格ですが、ピッチ上ではそれを微塵も感じさせないほどのエネルギーを放っています。
利き足は右ですが、左足でも寸分狂わぬキックを蹴ることができるため、左右どちらのサイドバックも高い次元でこなせるのが大きな強みです。
愛称は「レオン」として親しまれ、清水時代にはその卓越した技術と熱いキャラクターで、多くのファンの心を掴んで離しませんでした。
また、スパイクはミズノの「モレリアNEO」を愛用しており、素足感覚を大切にするそのこだわりからも、彼の繊細なタッチの秘密が伺えます。
山原怜音|サッカー経歴
■清水での足跡
彼のプロ生活は、2022年に筑波大学から正式加入したことで幕を開けましたが、実はその前年から特別指定選手としてJ1の舞台を経験していました。
1年目から開幕スタメンを勝ち取り、リーグ戦33試合に出場するなど、瞬く間に清水の不動の左サイドバックとしての地位を確立しました。
しかし、順風満帆な時期ばかりではなく、チームの降格や自身の負傷による離脱といった、苦しい季節も経験しています。
特に2023年は怪我に泣かされましたが、それでも腐ることなく「年間を通してタフに戦える選手になる」と誓い、2024年にはJ2ベストイレブンに選ばれるまでの復活を遂げました。
清水での公式戦通算136試合7得点25アシストという数字は、彼がどれだけ攻撃の要として、チームの勝利に貢献し続けてきたかの証です。
山原怜音|プレースタイル
山原選手の魅力は、何と言っても「サイドから試合を支配できる」圧倒的なキック精度にあります。
セットプレーでの一蹴り、ピンポイントで合わせるクロス、そして遠目からでも枠を捉える無回転のミドルシュートは、まさにワールドクラスと言っても過言ではありません。
かつての清水の名手・澤登正朗さんを彷彿とさせると称賛されるそのフォームは、小柄ながらもパンチ力があり、見る者の目を釘付けにします。
また、単に外側に張っているだけでなく、内側に絞ってゲームメイクに加わるインサイドバック的な役割もこなせるサッカーIQの高さを持っています。
本人も「J1だからといって守備的になるつもりはない」と語っており、新天地の川崎でも、その攻撃的な姿勢がチームに新しい風を吹き込むはずです。
山原怜音|結婚・子供は?
これだけ端正な顔立ちで活躍している山原選手ですから、プライベートを気にするファンの方も多いですよね。
現時点での情報を見る限り、山原選手は未婚で、お子さんもいらっしゃらないようです。
インタビューでは「今は一人暮らしをしている」と明かしており、お家ではこだわりのコーヒーを淹れたり、インテリアをお洒落にしたりと、独身生活を満喫している様子が伺えます。
好きな女性のタイプについては、キリッとした美人タイプよりも、西野七瀬さんのような「柔らかい雰囲気の人」が好みだそうですよ。
恋愛に対しても、自分の直感を信じつつ、相手の気持ちを深く考える慎重な一面があるのかもしれませんね。
今のところは、サッカーと自らの趣味に全力投球しているというのが、山原選手の現在のスタイルのようです。
山原怜音|実家の母親・父親は?
京都で育った山原選手の家族の絆は、非常に温かいエピソードに満ちています。
彼は12歳の時に親元を離れて静岡のJFAアカデミー福島に入寮しましたが、ご両親はどんなに遠くの試合会場へも足を運び、常にエールを送り続けてくれたそうです。
お父さんはもともとゴルフを嗜んでおり、山原選手が幼少期にゴルフに触れるきっかけを作ってくれた存在でもあります。
また、お母さんからは御朱印集めを勧められたそうで、今では伏見稲荷大社などの豪華な御朱印を集めるのが彼の密かな趣味になっています。
「自分が不自由なくサッカーをできているのは両親のサポートがあるから」と感謝を忘れない謙虚な姿勢は、きっとこうした愛情深い家庭環境で育まれたのでしょう。
山原怜音|兄弟は?
■共に歩んだ兄弟
山原選手には2人の年上の兄弟、つまりお兄さんがいらっしゃいます。
彼が3歳という若さでボールを蹴り始めたのも、実はこの2人のお兄さんの背中を追いかけたのがきっかけでした。
お兄さんたちも非常にキックが上手かったそうで、山原少年は「自分もあんな風に蹴りたい」と必死に真似をしながら練習に励んだと言います。
また、サッカー漫画の金字塔『ファンタジスタ』を勧めてくれたのもお兄さんで、その主人公が背番号「14」をつけていたことが、後の山原選手の番号へのこだわり繋がりました。
兄弟で競い合い、影響を与え合ってきたからこそ、今の「サイドのファンタジスタ」としての山原怜音が誕生したと言えるでしょう。
山原怜音|学歴(出身高校・大学)は?
■青春の高校・大学
山原選手の学生時代は、まさにエリート街道を突き進みながらも、泥臭く実力を磨いた期間でした。
中学・高校時代の6年間は、静岡を拠点とするJFAアカデミー福島で、親元を離れた厳しい環境の中でサッカーの基礎を叩き込まれました。
当時はボランチとしてプレーしていましたが、その後進学した筑波大学でサイドバックに転向したことが、彼の運命を大きく変えることになります。
大学2年時には、旗手怜央選手や三笘薫選手、上田綺世選手といった「黄金世代」と共にユニバーシアード日本代表に選ばれ、世界一の称号を手にしました。
ピッチ内では「大学サッカーといえば山原怜音」と言われるまでの存在になりつつ、ピッチ外では教員免許も取得するなど、非常にストイックな学生生活を送っていたようです。
山原怜音|出身中学・小学校は?
■原点の中学・小学校
山原選手のサッカー人生の原点は、地元京都の歴史あるクラブ「京都紫光サッカークラブ」にあります。
小学生時代はなんと「10番」を背負うフォワードとして、ゴールを量産する少年でした。
当時のクラブがボールコントロールを非常に重視する方針だったため、そこで培った基礎技術が、今の彼の正確なキックの土台となっています。
学校の休み時間も放課後も、友達と「壁の決まったところに当てる遊び」を繰り返していたエピソードは、まさにサッカー小僧そのものですよね。
中学からはJFAアカデミー福島U-15に進み、より高いレベルでの競争に身を投じることで、プロへの階段を一段ずつ、着実に登り始めていきました。
まとめ
山原怜音という選手は、その華やかなプレーの裏側で、誰よりも深く考え、悩み、そして準備を怠らない努力の人です。
心配性でネガティブになりがちな性格を自覚しているからこそ、それを「最大限の準備」へと繋げるメンタリティは、まさにプロフェッショナルの鑑と言えるでしょう。
清水エスパルスでの5年間で築き上げた誇りを胸に、川崎フロンターレという新しい舞台で彼がどんな物語を紡ぐのか、期待せずにはいられません。
等々力のピッチで、彼の右足から放たれる美しい放物線が、川崎のサポーターを歓喜の渦に巻き込む日は、もうすぐそこまで来ています。
僕たちファンにできることは、彼の「強い覚悟」を尊重し、どこのユニフォームを着ていても、その情熱的なプレーを全力で応援し続けることだけです。
山原選手の新天地での挑戦が、輝かしい成功に満ちたものになるよう、心から願っています。
