アリ・アスター監督の最新作『エディントンへようこそ』について、深く掘り下げていきましょう。
この作品は、アリ・アスター監督がホラーの枠を超えて、現代アメリカ社会の病巣をえぐり出した、非常に刺激的で、そして賛否両論を巻き起こしている問題作です。
SNS上でこの映画の情報を探しているあなたに、その混沌とした物語の全てを、熱量高めにお届けしますね。
エディントンへようこそネタバレ|あらすじ
■炎上スリラー『エディントンへようこそ』徹底考察
混沌の序章:パンデミック下の小さな町のあらすじ
アリ・アスター監督が『ヘレディタリー』や『ミッドサマー』で見せた、じっとりとした恐怖の視線は、今回、新型コロナウイルスが世界を覆った2020年のアメリカに向けられました。
舞台はニューメキシコ州の架空の小さな町、エディントン。
ロックダウンやマスク着用義務といったコロナ規制の中で、住民たちの不満と不安が極限に達している状況から物語は始まります。
主人公は、喘息持ちでマスク着用を頑なに拒否する保守派の保安官ジョー・クロス(ホアキン・フェニックス)です。
彼が反発するのは、町の近代化とIT企業誘致を進めるリベラルな現職市長テッド・ガルシア(ペドロ・パスカル)。
マスク着用をめぐる些細な小競り合いから、ジョーは突如「俺が市長になる!」と衝動的に選挙への立候補を表明するんです。
この対立の裏には、テッドがかつてジョーの妻ルイーズ(エマ・ストーン)と交際していたという、ジョーの深い個人的な嫉妬が横たわっています。
家庭内では、ルイーズの母ドーンが根っからの陰謀論者で、その影響を受けたルイーズは、オンラインで過激な説教をするカルト指導者ヴァーノン(オースティン・バトラー)にのめり込んでいく。
ジョーは、私的な恨みと政治的な野心から、テッドがルイーズを性的暴行したという虚偽の主張を公の場で振りまきますが、ルイーズはそれを否定する動画を投稿し、夫のもとを去ってヴァーノンのもとへ走ってしまう。
市長選、BLM運動の抗議、陰謀論、そしてジョーの満たされない自尊心――あらゆる火種がSNS上の憎悪とフェイクニュースを燃料にして、町は急速に破滅的な混沌へと飲み込まれていくのです。
エディントンへようこそネタバレ|最後の結末は?
■衝撃の結末:残されたのはデータセンターの光
物語が後半に入ると、緊張感は一気に爆発し、まるで西部劇からブラックコメディ・スリラー、そして不条理なアクションへとジャンルが変貌していきます。
テッド市長から公然と平手打ちを食らい屈辱を味わったジョーは、ついに理性を失い、その夜から凄惨な暴力の連鎖を引き起こします。
彼はまず、バーに侵入していた浮浪者のロッジを射殺し、その遺体を湖に遺棄。
そして、復讐心に駆られたジョーは、遠方からスナイパーライフルでテッド市長とその息子エリックを射殺し、現場に「Antifa(アンティファ)過激派」による犯行に見せかけるためのスローガンを書き残します。
さらに、彼は自分の黒人副保安官マイケルにテッドの懐中時計を仕込み、嫉妬による犯行として罪をなすりつけるという、極めて cynical(冷笑的)で悪質な行動に出ます。
しかし、ジョーが意図的に仕立て上げた「Antifa」の物語は、予期せぬ形で現実を呼び込みます。
覆面をした武装グループが私用ジェットで町に現れ、銃撃戦と爆発が勃発、この混乱の中でジョーの同僚ガイが地雷で死亡し、彼は追われる身となるのです。
最終的な市街戦で、ジョーは武装した刺客に頭をナイフで刺され、重篤な脳損傷を負ってしまいます。
瀕死のジョーを救ったのは、かつてBLM運動に参加していたティーンエイジャーのブライアン。彼は刺客を射殺する瞬間をスマートフォンで録画し、その動画は拡散されます。
1年後、ジョーは身体の自由を失い、話すこともできず、車椅子に座ったまま、なんとエディントンの市長に就任しています。
公的な場では、彼が嫌っていた義母ドーンが彼の代弁者として権力を振るい、陰謀論的な思想を振りまきながら、町を技術革新の方向へ導いています。
一方、英雄となったブライアンは、この出来事をきっかけに「右翼の英雄」として祭り上げられ、裕福なインフルエンサーとして悠々自適な生活を送っています。
そして、ジョーが愛も権威も全て失ったその傍らで、妻ルイーズはカルト指導者ヴァーノンの子を妊娠している姿が映像で確認されます。
画面の奥には、彼が選挙で反対していたはずの巨大なデータセンター「SolidGoldMagikarp」が、砂漠の闇の中で不気味に、しかし堂々と輝いている。
結局、個人的な争いの結末は、資本とテクノロジーの圧倒的な勝利という、極めて冷酷な現実でした。
エディントンへようこそネタバレ|評価は?
■賛否両論の評価:痛烈な風刺か、空虚な挑発か
この『エディントンへようこそ』は、アリ・アスター監督のフィルモグラフィーの中でも最も物議を醸した作品の一つであることは間違いありません。
カンヌ国際映画祭でプレミア公開された際も、批評家たちの評価は真っ二つに分かれました。
批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家スコア70%と「概ね好意的」を示しつつも、観客スコアは65%と分断された結果です。
IndieWireは「デジタルな未来によって人々が真実を見失った日常を、鮮明に、そして不快なほどに捉えた傑作」だと高く評価しています。
特に、SNSの通知音がまるで「音響的なジャンプスケア」のように機能し、現代の人間疎外を見事に表現している、という分析には深く頷かされました。
一方で、Roger Ebertの批評家は「意図的に空虚な挑発だ」と述べ、この映画が「2020年の混乱に対する説明はない」と結論づけていると指摘しています。
人種差別やBLM運動といった深刻なテーマを風刺の対象にしたことについて、「冷笑的だ」「人種的な挑発が向こう見ずで無責任に感じる」という厳しい意見も出ています。
私としては、この映画の「敢えて嫌われることを恐れない」姿勢こそが、アリ・アスターの作家性だと感じています。
確かに序盤は、コロナ禍の閉塞感や登場人物の個人的な不満が延々と描かれ、上映時間149分は長く感じるかもしれません。
しかし、ホアキン・フェニックスが演じるジョー・クロスという、自己憐憫と自尊心の欠如から暴走する哀れな男の姿は、観客の心に深く突き刺さります。
特に、『タクシードライバー』で知られる巨匠マーティン・スコセッシ監督が、この作品を「恐ろしいほど正確なアメリカの現状描写」として絶賛しているという事実は、この映画が単なる過激なエンタメではないことを物語っています。
エディントンへようこそ|この作品のテーマ
■真のテーマ:「資本の神」とイデオロギーの空虚さ
『エディントンへようこそ』が真に語ろうとしているテーマは、表面的な政治対立のずっと奥に潜んでいます。
アリ・アスター監督は、自身の映画について尋ねられた際、「データセンターの建設についての映画だ」と答えているんです。
これは、一見、マスク論争やBLM、陰謀論といった「文化戦争のノイズ」に惑わされがちな観客に対する、強烈なヒントになっています。
この映画が描き出すのは、パンデミック下の「イデオロギーの空虚さ」です。
ジョーにせよ、リベラルなテッドにせよ、はたまたソーシャルジャスティスを唱える若者たちにせよ、彼らが信じる政治的信条は、個人的な恨みや、承認欲求、自己定義の欠如から生まれているに過ぎない。
ジョーは妻に格好つけたいがために市長選に出馬し、ブライアンは好きな女性に近づきたいがためにBLMの活動家に偽装します。
彼らは、自分が「何が正しいか」ではなく、「誰を攻撃するか」にエネルギーを注ぎ、コミュニティの中でさえも分断された「確信の小部屋」に閉じこもっているのです。
そして、彼らが互いに殺し合い、傷つけ合うという血みどろの騒動の果てに、静かに勝利を収めたのは、誰の信念とも関係のない、巨大な資本の力でした。
終盤に登場する謎の武装グループやドローンは、政治的な左右のイデオロギーとは無関係に、町の再構築とAIデータセンターの建設という「資本の論理」のために動く、顔のない「資本の指」 の象徴です。
ジョーが反対していたデータセンターは完成し、彼はその無力な「傀儡市長」として、大企業のテクノロジー主導の議題が進行するのを、ただ見つめることしかできない。
アリ・アスター監督は、この映画を通じて、私たちが夢中になって対立している文化戦争の背後で、巨大なテック資本が静かに、そして不可逆的に世界を支配しているという、現代の最も恐ろしい真実を、痛烈な風刺として投げつけているのではないでしょうか。
まとめ
『エディントンへようこそ』は、ただの「コロナ映画」ではなく、テクノロジーと資本主義に飲み込まれていく現代アメリカの、冷徹で不条理な「現代版西部劇」 なのです。