夏の夜の静寂を切り裂くように、僕たちの心に深く、重く、そして信じられないほどの解放感を残していったドラマがありました。
それは、終戦から長い年月を経た今だからこそ、僕たちが直視しなければならない、ある一人の男の逃亡と抵抗の物語です。
国家という巨大な怪物にたった一人で背を向けた男が、戦後の平和と繁栄の中で何を見つめ、何に追い詰められていったのか、その軌跡を一緒に辿ってみましょう。
画面の向こうから漂ってくる戦時中の張り詰めた空気と、現代にも通じる息苦しい同調圧力の正体を、僕なりの視点で徹底的に解きほぐしていきます。
日常の喧騒を少しだけ忘れて、この深く美しい物語の宇宙に、ゆっくりと浸っていただければ幸いです。
笹まくら(ドラマ)|原作は?
■原作と作品情報
この作品を語る上で、まず整理しておかなければならない大切な事実があります。
実は、同じ『笹まくら』というタイトルで、かつて1974年にもフランキー堺さん主演でNHKでドラマ化されたことがありますが、そちらは結城昌治さんの直木賞受賞作を原作とした全く別の物語です。
今回僕たちが心を震わせたのは、昭和を代表する知性であり、言葉の魔術師でもあった丸谷才一さんが1966年に発表した同名の金字塔的小説を、史上初めて映像化した特集ドラマです。
初の映像化に挑んだのは、映画『バカ塗りの娘』で瑞々しい感性を爆発させ、芸術選奨文部科学大臣新人賞に輝いた新鋭の鶴岡慧子監督です。
脚本を担当した秋之桜子さんは、原作が持つ複雑に入り組んだ「意識の流れ」という文学的技法を、時に静謐に、時にサスペンスフルな人間ドラマとして見事に再構成しました。
制作は優れたドキュメンタリーやドラマを世に送り出し続けているテレビマンユニオンが手がけ、終戦から80年近くが経過した現在の国際緊張とも奇妙に響き合う、極めてタイムリーな意欲作として誕生したのです。
笹まくら(ドラマ)|あらすじ
■息を潜めて生きる男のあらすじ
物語は、戦後20年が経過した昭和41年の東京で、私立大学の庶務課課長補佐として平凡に、目立たないように暮らす45歳の浜田庄吉のもとに届いた、一通の訃報から静かに動き出します。
亡くなったのは、結城阿貴子、それは彼が戦時中の過酷な逃亡生活の中で、たったひととき魂を重ね合わせた、忘れられない女性の死を知らせるものでした。
その知らせを受け取った瞬間から、庄吉の脳裏には、彼がずっと心の奥底に封印し続けてきた20代の凄惨な記憶が、まるで濁流のように溢れ出してきます。
昭和15年の秋、医者の息子として東京で暮らしていた若き庄吉は、親友が過酷な軍隊内でのしごきやいじめによって自ら命を絶った悲劇をきっかけに、国家の目的や軍隊そのものへの強い不信感を抱くようになります。
そして彼は、誰かを殺すことも、自分が誰かに殺されることも拒絶し、召集令状が届いたその前日に、なにくわぬ顔で家族の待つ家を出て、そのまま果てしない徴兵忌避の旅へと身を投じたのです。
杉浦健次という偽名を名乗り、時計やラジオを修理する職人として、あるいは砂絵を子供たちに売る流浪の香具師として、憲兵や周囲の密告の目に怯えながら、彼は北は北海道から南は九州、さらには朝鮮半島まで、日本全国を絶え間なく逃げ回り続けました。
旅の途中で出会った家出娘の阿貴子と激しい恋に落ち、美しい隠岐の島で仮初めの契りを結び、四国の宇和島にある彼女の実家に身を隠しながら、ついに昭和20年8月15日の敗戦を迎えます。
戦争という狂気から生き延びた庄吉は、戦後、大学の理事である堀川の紹介で事務職員としての職を得て、見合いを通じて20歳も年下の若く美しい妻である陽子を迎え、平穏で誰もが羨むような安定した中流階級の生活を築き上げていました。
しかし、同僚の西正雄とのくだらない昇進争いをきっかけに、ライバルの西の裏工作によって、庄吉がかつて国家を裏切った徴兵忌避者であるという過去が右翼雑誌に暴露されてしまいます。
戦後すぐの厭戦的な空気の中では「反戦の英雄」のようにも見えた彼の過去は、日本が高度経済成長を遂げて国家が自信を取り戻し、再び右傾化し始めた昭和40年代の社会において、許されざる「卑怯者の非国民」という刃に変わって彼を追い詰めていくのです。
笹まくら(ドラマ)|キャスト相関図
■複雑に絡み合う人間関係の構図
このドラマのキャスティングが発表された時、誰もがその贅沢で野心的な試みに目を見張ったに違いありません。
何よりも素晴らしいのは、主人公である浜田庄吉の人生を、45歳の現在を演じる森山未來さんと、20代の逃亡期を演じる青木柚さんの二人が、まるで一本の美しい糸を紡ぐように演じ分けたことです。
森山未來さんは、表面的には平穏な小市民を装いながらも、心の内側に常に過去の亡霊と罪悪感を飼い慣らしている男の、乾いた孤独と焦燥感をその佇まいだけで見事に体現していました。
一方で、青年期を演じた青木柚さんは、いつ捕まるか分からない恐怖と、自分の代わりに誰かが戦地で死んでいるのではないかという凄まじい自己嫌悪に押し潰されそうになりながらも、生への執着を捨てない生々しい若さをスクリーンに焼き付けました。
庄吉を包み込む二人の女性の存在もまた、このドラマの美しさを際立たせており、堀田真由さん演じる過去の恋人・阿貴子は、荒涼とした逃亡の砂漠に咲いた一輪のひまわりのように、庄吉の孤独な心を深い母性と情熱で救い上げます。
それに対して、川栄李奈さんが演じた現在の妻・陽子は、一見すると若くておっとりとした可愛い奥さんでありながら、実は誰にも言えない秘密と、ある種の爆発的な衝動をその身に宿した、不思議な生命力に満ちています。
そして、庄吉の前に立ちはだかる最大の対極として描かれるのが、駿河太郎さん演じる西正雄であり、彼は実際に地獄のような最前線を生き延びて復員した男だからこそ、戦わずに逃げ切った庄吉への激しい軽蔑と憎悪を燃やし、その執念で庄吉を社会的に抹殺しようと画策します。
さらに、瀬戸康史さん演じる美的なフランス語助教授・桑野稔は、冷酷な現実の人間関係にはどこか無関心でありながら、文学的テクストを解釈するように庄吉の「徴兵忌避」という孤独な抵抗を敬愛し、静かに彼を見守る複雑な役どころを演じきりました。
笹まくら(ドラマ)|モデル
■語り継がれる奇妙なモデルたち
丸谷才一さんがこの壮大な物語を紡ぎ出すきっかけとなったのは、彼が戦後間もない頃に、実際に日本全国や朝鮮半島を逃げ回って生き延びた、ある名前も知らぬ徴兵忌避者の男と出会ったことでした。
その男に「終戦の日はどこにいましたか」と尋ねた際、男がボソッと「四国にいた」と答えたその一言が、著者の想像力を刺激し、地理的に奥まった美しい城下町である宇和島という舞台へと彼を導いたのです。
しかし、この小説にはもう一人、文学ファンをニヤリとさせる、極めて魅力的で破天荒な実在のモデルの影が重なっています。
それこそが、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を丸谷さんらと共に翻訳した高名な英文学者であり、生涯をボヘミアンとして生きた永川玲二さんその人です。
永川さんは、陸軍幼年学校に入学したものの、その軍隊のあまりの横暴さと理不尽さに耐えかねて脱走し、もし見つかれば即座に銃殺刑という極限の恐怖の中で、本名を隠して全国を逃亡し続けたと生前語っていました。
永川さんの弟さんや資料によれば、この脱走劇自体が永川さんの豊かなボヘミアン気質が生み出した華麗な虚構であった可能性が極めて高いそうですが、この「追われる男」というロマンチックなイメージこそが、丸谷さんの胸に深く刺さり、浜田庄吉の輪郭を形作ったのは間違いありません。
さらに、劇中で瀬戸康史さん演じる桑野助教授が語る、終戦の日に玉音放送の意味を理解できない周囲の兵隊に解説をしたところ、激昂した下士官から釘の出たスリッパで顔が血まみれになるまで殴られたという壮絶なエピソードがあります。
これは決してフィクションではなく、若き日の丸谷才一さん自身が、敗戦のその日に軍隊の理不尽な暴力の中で実際に体験した、生涯消えることのない深い心の傷そのものなのです。
笹まくら(ドラマ)ネタバレ|最後の結末は?
■自由の宝に目覚める最後の結末
昇進の話は完全に立ち消え、恩人であるはずの理事からも冷酷に見放され、かつての親友であった社長の堺からもそっけなく断られた庄吉は、自分が築き上げてきた戦後の安定が砂の城のように崩れていくのを感じていました。
そんな絶望のどん底にいる彼の元に、ある日突然、警察から「奥さんが万引きで捕まった」という、およそ不釣り合いで滑稽な連絡が舞い込みます。
あわてて警察署へ向かい、身元引受人として引き取った妻の陽子は、泣き腫らしながらもどこか不貞腐れた、相変わらず掴みどころのない態度をしていました。
ところが、彼女を助手席に乗せて車を走らせ、ようやく自宅の前にたどり着いたとき、庄吉は隣に座る妻の姿を見て、言葉を失うほどの衝撃を受けることになります。
陽子は、警察に逮捕され、釈放されたばかりのその恐ろしい緊張の直後であるにもかかわらず、助手席で何事もなかったかのようにスヤスヤと穏やかな寝息を立てて爆睡していたのです。
その時、庄吉の胸に湧き上がってきたのは、怒りでも呆れでもなく、魂の底から揺さぶられるような、妻に対する猛烈な「羨望」の感情でした。
国家の法律も、世間の目も、道徳の掟すらも彼女を縛ることはできず、ただ自分の衝動に従って生き、その直後には何事もなかったかのように眠れる、その圧倒的な野生の「自由」の美しさに、庄吉は気づかされたのです。
自分は戦時中、あれほど飢えと恐怖に震えながら、一体何を求めて逃げ回っていたのか、それは国家や社会のしきたりという虚構のシステムからの「自由」ではなかったか、と彼は自問します。
そうであるならば、戦後の平穏な中流の生活に囚われ、ネクタイを締めて世間体を気にしながら怯えて暮らしていた今の自分こそが、本当の不自由な檻の中にいたのではないか、と彼は気づくのです。
いざとなったら、すべてを失っても、またテレビの修理工にでも戻って、ネクタイを外して自由に生きていけばいい、自分はもともと、この世界の最も重い掟に逆らった男なのだから、と彼は静かに開き直ります。
国家に、体制に、一度でも反抗した者は、最後まで危険な旅人として、あの不安でやりきれない「笹まくら」の旅を続けるしかないのだという、寂しくも美しい覚悟が彼の心を満たします。
そしてカメラは、そんな彼の精神の目覚めと呼応するように、昭和15年10月、20歳の庄吉がまさに家を飛び出し、東京駅から宮崎へと逃亡の旅を始める、すべての発端の瞬間へと円環を閉じるように戻り、物語はあまりにも鮮やかに、そして美しく幕を閉じるのです。
笹まくら(ドラマ)ネタバレ|考察
■孤独な反逆者が問いかけるストーリー考察
このドラマが僕たちの胸をこれほどまでに締め付けるのは、それが「過去の戦争の悲劇」を描くだけにとどまらず、今この現代を生きる僕たちの息苦しさと完全につながっているからです。
戦時中の軍隊という、一歩間違えば命を奪われる圧倒的な全体主義の同調圧力から逃れたはずの庄吉が、戦後20年の平和な大学組織という、極めて卑小な人間関係の同調圧力の中で、再び「異物」として排除されていく皮肉は、背筋が寒くなるほどのリアリティを持っています。
多数派と同じ制服を着て、同じ方向に歩むことを強制する社会の空気は、形を変えて、今の僕たちが生きる現代のオフィスやSNSのキャンセル文化のなかにも、全く同じように息づいています。
タイトルの「笹まくら」の由来となった藤原俊成女の和歌が持つ、風に揺れてカサカサと鳴る笹の葉の、あの落ち着かない、やりきれない不安感は、国家という大きなお化けに背を向けた者が、一生涯背負い続けなければならない宿命の響きです。
また、劇中で若き日の庄吉たちが炬燵を囲んで議論する「国家の目的は戦争以外にない」という堺の言葉と、それに対する「国家とは無目的なシステムだからこそ、内的な崩壊を防ぐために、常に外的な緊張を作り出し続ける」という庄吉の仮説は、現代の世界情勢を見渡すとき、あまりにも予言的に響きます。
鶴岡慧子監督は、原作の最大の特徴である、改行も説明もなく現在から過去へとシームレスに変転する「意識の流れ」を、光と音の演出、そして俳優たちの些細な仕草のリンクによって、映像でしか成し得ない最高峰のフラッシュバック表現としてスクリーンに定着させました。
何が善で何が悪かという単純な二元論を徹底的に排除し、逃げた者の孤独と、戦場に赴いた者の狂気、その双方の痛みを等価に見つめる冷徹なまなざしこそが、このドラマを単なるお説教ではない、極上の人間賛歌に仕上げているのです。
笹まくら(ドラマ)|感想
■胸を打ちのめされた個人的な感想
30代前半で未婚、日々の暮らしの中で何かしら組織の歯車としての生きにくさを感じている僕にとって、このドラマを観終えた後の余韻は、しばらくベッドから立ち上がれないほどに凄まじいものでした。
ただ死ぬのが怖くて、人を殺したくなくて逃げ出した、そんな一人の青年の、およそ「英雄」とは呼べない弱さと脆さが、僕自身の心の奥底にある「逃げ出したい」という本音と重なって、涙が止まらなくなりました。
森山未來さんの、あのすべてを諦めたような虚ろな瞳の奥に、時折パチパチと火花を散らす逃亡者としての執念が宿る瞬間は、まさに鳥肌が立つほどの美しさです。
そして何より、ラストで川栄李奈さん演じる陽子が警察からの帰り道で見せた、あの圧倒的に不敵で、誰にも魂を渡さない爆睡の姿に、僕は言葉にできないほどの救いを感じました。
社会のルールや他人の評価から完全に逸脱した、あの身勝手で野生の横顔こそが、長年、自分だけの檻の中で怯えていた庄吉を本当の意味で解放し、彼に再び「笹まくら」の旅を始める勇気を与えたのです。
それは、現代のルールに縛られ、他人の目を気にして縮こまって生きている僕たちに対しても、「お前自身の自由を、本当に生きているか」と、冷たく、しかしどこまでも優しく問いかけているように思えてなりません。
まとめ
■危険な旅を続ける僕たちのまとめ
ドラマ『笹まくら』は、戦争という極限状態を借りて、人間が「自分自身の魂の自由」を守るために、どれほどの代償を支払わなければならないのかを静かに描き出した、掛け値なしの傑作です。
それは、1960年代の高度経済成長期という忘却の時代への批評であると同時に、今まさに目に見えない同調圧力に包まれている僕たちの、現代の精神風俗への鋭い告発でもあります。
最後まで観終えたとき、僕たちはもう、ドラマを観る前の自分には戻れなくなっていることに気づくはずです。
僕たちもまた、平穏という名の檻をそっと抜け出し、自分だけの「寂しい宝」を探すための、果てしない旅の旅人なのですから。
映画やドラマという表現が、単なる娯楽を超えて、僕たちの人生の選択そのものを美しく揺さぶる瞬間を、この作品は確かに教えてくれました。
