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マグニフィコ王wiki|かわいそう?悪くない・正しい?最後は?【ウィッシュ考察ネタバレ】

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はるを 海外ドラマ・映画

ディズニー映画『ウィッシュ』をご覧になった皆さん、そしてこれからご覧になる皆さん、こんにちは!

僕は日々、映画やドラマの考察に情熱を燃やすブロガーなんですが、ディズニー100周年記念作品である『ウィッシュ』のヴィラン、マグニフィコ王については、もう語り尽くせないほどの魅力と、そして議論の種が詰まっていると感じています。

「マグニフィコ王は本当に悪役なのか?」「むしろ主人公のアーシャこそが身勝手ではないか?」なんて声もネットで飛び交っていますが、そのモヤモヤ、一緒にスッキリさせていきましょう!。

この王様の、あまりにも人間的で、哀しいほどの「正しさ」を、熱意を持って深掘りしていきますね。

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マグニフィコ王wiki|キャラクター設定【ウィッシュ考察ネタバレ】

■完璧な国王?意外すぎるその素顔

マグニフィコ王は、ロサス王国を治める魔術師の国王です。

彼の物語は、一般的なディズニーヴィランとは一線を画しています。

まず目を引くのは、その端正なルックスと白を基調とした優雅な衣装ですよね。

歴代の悪役たちが黒や紫の暗い色をまとう中、白を基調としたマグニフィコ王は、物語の冒頭ではまさに「善き王」として国民に愛され、尊敬を集めていました。

ロサス王国は、彼が独学で強力な魔法を習得し、一代で築き上げた平和で豊かな理想郷です。

彼の生い立ちは非常に悲劇的で、幼い頃に家族を盗賊に殺され、故郷を失うという壮絶なトラウマを経験しています。

この「二度と大切なものを失いたくない」という強い思いが、彼が魔法を学び、ロサス王国を建国した根源的な動機になっているんです。

自らの努力で偉業を成し遂げた熱意と才能の塊である一方で、その過去の傷から、彼は極端なまでに「支配」と「安全」に固執するナルシシストへと変貌していきます。

彼の名前「マグニフィコ(Magnifico)」自体が「壮大な」「素晴らしい」を意味しており、自己愛の強さを象徴していますよね。

マグニフィコ王|日本語版の声優は?

■福山雅治の情熱的な歌声と演技

日本語吹き替え版でマグニフィコ王の声を担当したのは、俳優であり歌手の福山雅治さんです。

福山さんの起用は、その容姿端麗さ歌手としての実力を兼ね備えている点で、まさに適役だったと感じています。

原語版を演じたクリス・パインも、マグニフィコの魅力的でカリスマ的な側面を完璧に表現したと絶賛されていましたが、福山さんの歌声も本当に聞き応えがあります。

特に、マグニフィコ王のテーマソング「無礼者たちへ(This Is the Thanks I Get?!)」は、彼の高慢さと、国民からの感謝を求める苛立ちが爆発する最高のヴィランソングですよね。

福山さん自身、マグニフィコ王を「正しく正義感に溢れている」「その行き過ぎた正義感に故に悲しい存在となってしまった、悲劇の王様」と評しています。

このコメントから、福山さんがマグニフィコ王の複雑な内面を深く理解し、単なる悪役ではない、深みのあるキャラクターとして演じ切ろうとした情熱が伝わってきますよね。

マグニフィコ王|ストーリー中の役割・立ち位置【ウィッシュ考察ネタバレ】

■善意が生んだ「願いの支配」という役割

マグニフィコ王がロサス王国で担っていた最大の役割は、国民の「願い」(ウィッシュ)を管理し、叶えることです。

ロサスの住民は18歳になると、人生で最も大切な願いを王に預け、その願いの記憶を失います。

彼はその願いを秘密の部屋に厳重に保管し、月に一度の儀式で「国にとって利益になるか、あるいは無害な願い」を選別して叶えていました。

表向きは「すべての願いにチャンスがある」と国民に信じ込ませていましたが、実際は叶えるつもりのない願いを多数、永遠に封印していたのです。

彼の理屈は「願いが叶わない苦しみから人々を解放し、国の平和と安定を保つため」という、一見、慈悲深く合理的なものでした。

しかし、主人公のアーシャが彼の弟子になる面接で、100歳の祖父サビーノの願い(音楽で人々をインスパイアしたいという、一見ささやかなもの)が、「革命を促す危険性がある」として却下されたことで、アーシャは王の動機に疑問を抱きます。

マグニフィコ王の役割は、「善意から始まった独裁」を体現しており、人々の「願い」という、個性や魂の一部を支配することで、ロサスを「偽りのユートピア」として維持することでした。

そして、アーシャが星に願い、スターという新たな魔法の力が現れた瞬間、マグニフィコ王の「支配」は脅威にさらされ、彼は禁断の暗黒魔法に手を染め、真の悪役へと転落していきます。

マグニフィコ王|最後は?【ウィッシュ考察ネタバレ】

■誰もが衝撃を受けた彼のラストシーン

マグニフィコ王の物語は、悲劇的で、誰もが衝撃を受ける結末を迎えます。

暗黒魔法の力でスターを杖に閉じ込め、国民全員を魔法で拘束し、「もう願いも、希望も、逃げ道もない」と狂気の独裁者として君臨しますが、彼の支配は長く続きませんでした。

拘束されたアーシャの呼びかけに応じ、ロサスの住民たちが自らの力で未来を変えるという強い願いを一つにしたことで、マグニフィコの魔法は打ち破られてしまいます。

最終的に、マグニフィコ王は、自らが作り出した杖の先端にある鏡の破片の中に、痛みとともに閉じ込められてしまうのです。

彼の最期の言葉は、鏡の中から元妻のアマヤ王妃に助けを求める「お願いだ、出してくれ!地下牢は本当に臭いんだ!」という、哀れな断末魔でした。

アマヤ王妃は、彼の残虐な行為に対する「あなたにふさわしいお礼よ」として、彼が閉じ込められた鏡を地下牢の壁に吊るすよう命じ、マグニフィコ王は永遠に王国の闇の中に封印されます。

この結末は、『白雪姫』の魔法の鏡の起源ではないかという、ディズニーファンならワクワクしてしまうような考察もされていますよね。

僕個人としては、彼の最期が、かつて愛した妻による「裏切り」という形で、誰も救いのない形で決着したことが、彼の悲劇性を際立たせていると感じています。

マグニフィコ王|かわいそう?悪くない・正しい?【ウィッシュ考察ネタバレ】

■マグニフィコ王は正しいのか?論争を徹底考察

さて、いよいよ本題です。

マグニフィコ王を巡る最大の論争は、彼が「かわいそう」「悪くない」「むしろ正しい」という意見が根強くあることです。

これは、彼のキャラクターが持つ「善の要素」が非常に強いため、観客が「絶対悪」として断じきれないからなんですよね。

■彼の行動を擁護する声

まず、彼を擁護する意見を見てみましょう。

「国の平和と安全を守るため」という目的は、彼の家族を失った過去に根ざしており、その動機は純粋な善意から始まったものでした。

ロサスは衣食住が保証され、家賃も無料のユートピアであり、マグニフィコ王は国民に尽くす努力家でした。

また、国民は「願いを預けることで記憶を失う」ことを承知の上で、自分の力で叶える努力を放棄し、他力本願で王に依存していたという側面も無視できません。

彼が禁断の魔法に手を出したのは、アーシャという外部の脅威によって王国の平和と彼の権威が崩壊する危機感に追い詰められた結果であり、その暴走は同情の余地がある、という見方があるのも、頷けるんですよね。

■それでも彼はヴィランだった理由

しかし、僕が「熟練のブロガー」として考察するに、マグニフィコ王の行動は、根本的なところで「悪」だったと断言できます。

彼の最大の罪は、「嘘」と「自由の否定」にあります。

国民は願いが叶う可能性を信じていましたが、マグニフィコ王は叶えない願いを永遠に返さないという真実を隠していました。

しかも、「願い」は単なる希望ではなく、その人の個性や魂の一部でした。

マグニフィコ王は、国民からその自己決定権(自由)を奪い、「私が決めることこそが、あなたたちにとって最善だ」という独善的な思想を押し付けていたのです。

彼が祖父サビーノの無害な願いすら「革命の脅威」として否定したように、彼の選別基準は「国益」ではなく、「自分の権威と支配を脅かすかどうか」という、極めて自己中心的で神経質なパラノイアに基いていたのは明らかです。

ディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーであるジェニファー・リーも、マグニフィコの悪への転落は、最も困難な瞬間に「間違った選択」をした彼自身の責任だと強調しています。

彼は、対話の機会を拒否し、恐怖と支配によって王国を維持しようとした、自由主義の理念を否定するヴィランだったのです。

マグニフィコ王に共感してしまうのは、彼の悲劇的な過去と努力を知っているからこそですが、「かわいそう」であることと「正しい」ことは全く別物なんですよね。

まとめ:願いが叶うことよりも大切なもの

ディズニー100周年を飾る『ウィッシュ』において、マグニフィコ王は、「願いを誰かに預けて安心を選ぶか、自ら叶える苦難の道を選ぶか」という、普遍的なテーマを象徴する存在でした。

彼のキャラクターは、単なる悪役ではなく、トラウマと孤独に苛まれ、自らの恐怖を克服できなかった一人の弱い人間として描かれています。

だからこそ私たちは彼に強く感情移入し、その末路に「かわいそう」と感じてしまうわけです。

しかし、この物語が最終的に伝えたかったのは、願いは他人に叶えてもらうものではなく、自分自身を突き動かし、未来を切り開くための「希望の源」である、ということですよね,,。

マグニフィコ王は鏡の中に封印されましたが、彼が残した問い、「安定のために自由を犠牲にすることの是非」は、現代社会を生きる私たちにとっても、深く考えさせられるテーマとして残っています。

彼の魅力的な悪役としての存在感は、この映画が議論を呼び、長く語り継がれるための「最高のスパイス」だったと、僕は確信していますよ!

もしこの考察を読んで、また『ウィッシュ』を観直したくなったなら、今度はマグニフィコ王の「完璧な白の裏に隠された緑の狂気」に注目してみてくださいね。

彼のナルシシズムが、いかに脆く、危ういものだったかが見えてくるはずです。

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