元祖Jリーグのモテ男、武田修宏の波乱万丈な人生を深掘り!
彼は現役時代、甘いルックスと華麗なプレーで一世を風靡したスーパースターですよね、僕らの世代にとってはレジェンド的存在です。
テレビで見ない日はないタレントさんですが、その華やかなイメージの裏には、壮絶な過去や、驚きの金銭トラブル、そして意外なほどの「女子力」が隠されているのを知っていますか?
今回は、サッカーファンだけでなく、彼の人間性に興味があるすべての読者に向けて、武田修宏さんの知られざる真実を徹底的に掘り下げていきます。
武田修宏wikiプロフィール|年齢・身長は?
武田修宏さんは1967年5月10日生まれで、静岡県浜松市中区のご出身です。
現役時代のポジションはフォワード(FW)で、その甘いルックスから、Jリーグ発足当初は時代を象徴するモテ男として多くの女性を夢中にさせました。
サッカー選手としての実績も輝かしく、新人王、MVPをそれぞれ1度ずつ受賞し、さらにベストイレブンにはJSL時代に3回、Jリーグ時代に1回の計4度選ばれるという偉業を成し遂げています。
プレースタイルには、フィジカルやテクニックといった突出した能力はなかったものの、ポジショニングの巧みさとゴールへの嗅覚が非常に優れており、「ごっつあんゴーラー」という愛称で親しまれました。
引退後はサッカー解説者やタレントとして活躍し、2022年にホリプロを退所するまでは長きにわたりメディアで活躍されていましたね。
武田修宏|経歴
武田さんのキャリアは、順風満帆という言葉では語り尽くせないほど波乱に満ちています。
彼は小学校1年生でサッカーを始め、少年時代から静岡県内で「天才サッカー少年」として知られていました。
サッカーの名門である静岡県立清水東高校に進学し、わずか1年生にして全国高校サッカー選手権で準優勝を果たし、そのセンスと技術で一躍注目を浴びることになります。
高校卒業後の1986年、読売クラブ(現:東京ヴェルディ)に入団し、19歳で早くも日本代表に選出されました。
Jリーグ創設後の1993年にはヴェルディ川崎の中心選手として黄金時代を築きましたが、同年には日本中を悲しませた「ドーハの悲劇」を経験しています。
特にキャリアの転機となったのは2000年、32歳の時、当時所属していたチームから戦力外通告を受けたことです。
この頃、長年預けていた自身の貯蓄1億数千万円を身内に横領されるという金銭トラブルにも見舞われ、人間不信に陥った武田さんは日本を離れたいという思いから、南米パラグアイのチームへ単身移籍する道を選びました。
飛行機で約24時間かけてパラグアイへ渡り、牛が歩くようなデコボコの硬い土のグラウンドで練習するという、日本とは全く違うハングリーな環境でのプレーは、彼にとって大きな財産になったそうです。
しかし、パラグアイでは監督がすぐに解任されたこともあり、満足な結果は残せず帰国、古巣の東京ヴェルディで短期間プレーした後、34歳で現役を引退しました。
現役引退は、「もう日本代表に呼ばれることはない、夢だったW杯を諦めるなら選手は続けられない」という覚悟によるものでした。
武田修宏|年収
■天国と地獄の年収
武田さんの現役時代の収入変遷は、まさに日本サッカー界のバブル期を象徴しています。
Jリーグ発足前のJSL時代、彼は静岡第一テレビの子会社に入社し、東京支社への出向社員として読売クラブでプレーしていました。
このサラリーマン時代、午前中は銀座の支社で電話番や営業の仕事をし、当時の手取りは20万~22万円ほどで、住宅手当が出ていたそうです。
それが1993年のJリーグ発足でプロ化すると、彼の収入は劇的に跳ね上がります。
月給が40万円から一気に600万円に、そして2年目には年俸が1億2000万円になったと本人が振り返っています。
全盛期の推定年収は1.5億円を超えていたとされていますが、このバブル景気は長くは続きませんでした。
彼が34歳で戦力外となった時、伯父が税理士だったため信頼して預けていた1億5000万円あった貯金が、投資の失敗によってゼロになっていることが発覚したという、衝撃の金銭トラブルに見舞われています。
まさに天国から地獄、壮絶な転落劇ですよね。
現在の推定年収は、タレント活動を大幅に縮小したとはいえ、サッカー解説者や講演、2024年度には名古屋グランパスエイトの特別コーチを務めるなど、多方面での活動により1000万円以上は稼いでいると推測されています。
武田修宏|自宅
■独身貴族の自宅と生活
現役時代に豪遊していた武田さんの自宅での過ごし方には、ちょっと意外な一面があります。
Jリーグの全盛期、彼は敷金・礼金代わりにホテルにお金を落とす方が良いと考え、ホテルオークラのスイートルームに1年間住んでいたという超バブリーな生活を送っていました。
しかし、現在の武田さんは、驚くほど几帳面で規則正しい生活を送っています。
朝は必ず5時くらいに起きてゆっくり過ごし、自炊もこなし、ご飯を炊いて出汁をとり味噌汁を作ったり、卵焼きや生姜焼きなどを作ったりしているそうです。
また、ストレスから解放される空間として自宅を大切にしており、なんと20年近くUSENを愛用し、最新の番組表を壁に貼ってすぐにチャンネルを変えられるようにしているというエピソードも公開されています。
さらにアロマキャンドルを焚き、落ち着いた音楽(特に『ラヴバラード 洋楽』チャンネル)を聴いてくつろぐのが至福の時間だとか。
このギャップ、想像すると面白いですよね、あの武田さんがアロマキャンドルの隣でUSENを聴いているなんて、僕らのイメージするチャラ男とは全然違う!
武田修宏|子供は息子?結婚しない理由は?
■結婚しない理由と歴代の彼女
武田さんが現在も独身を貫いているのは、彼のメンタルと幼少期の経験に深く関わっているようです。
彼は「結婚したい」という願望自体はあると語っていますが、なかなか実現しない理由として、「サッカーが恋人」で、すべてをサッカーにかけているため、それを理解してくれる相手が難しいかもしれないと話しています。
そしてより深い理由として、幼少期の両親の離婚・再婚という不安定な家庭環境が原因で、プライベートでは非常に慎重になり、決断力がなくなってしまうことを明かしています。
サッカーのピッチ上では「ストライカータイプ」で決断力があるのに、人生の大きな決断、特に結婚に関しては慎重になってしまい、良いなと思った女性はみんな先に結婚してしまうのだとか。
武田修宏|歴代の彼女
武田さんの過去の女性関係については、派手なイメージとは裏腹に、これまでに付き合ったのは7~8人と意外と少ないと公言しています。
彼のモテ伝説で最も有名なのは、高校時代に交際していた女性が、なんと後に超人気女優となる広瀬すずさん・アリスさんの叔母だったという驚きの事実です。
広瀬さんのおばさまは「清水でも有名なキレイな方」だったそうです。
また、タレントの梅宮アンナさんとは30年ほど前(アンナさんが21歳頃)に何度もデートしていましたが、アンナさん曰く「結局フラれた」とのことで、交際には至らなかったそうです。
さらに、女優の紫吹淳さんとも食事デートをしていたことがあり、武田さんは彼女を送るために酒を飲まないという紳士的な一面も見せています。
そして、彼が結婚できない原因ともなっているのが、武田さんと付き合っていた女性たちの「運命」です。
武田さんと一緒に規則正しい健康的な生活(朝5時起き、自炊など)を送ることで、メンタルを病んでいた子たちが元気になり、「みんな会社に戻って結婚していく」のだとか。
武田さんは自らを「オアシス」だと苦笑いしながら語っています。
武田修宏|実家・家族構成(両親・兄弟)
■実家と壮絶な家族構成
武田さんの華やかなイメージを覆す、彼の人生の原点には壮絶な幼少期の苦労がありました。
実家は静岡県浜松市で、父、母、2歳上の兄、祖母の5人家族でした。
お父様は長距離トラックの運転手、お母様は看護師として家計を支えていましたが、お父様がギャンブル好きで多額の借金を作り、家計は綱渡りの状態でした。
借金取りが自宅まで来るような過酷な環境で、さらにお父様がお母様に暴力を振るうようになり、家が差し押さえられ、武田さんが中学生の時にご両親は一度離婚しています。
この頃、お母様は看護師の夜勤で不在がちだったため、武田さんは兄と2人で寝たきりだった祖母の面倒を見ていたそうです。
家には帰りたくないという一心でサッカーに打ち込み、この過酷な環境のおかげでメンタルが鍛えられ、強くなったと武田さんは振り返っています。
しかし、高校1年生で全国高校サッカー選手権の決勝戦に出場した際、たまたまテレビをつけたお父様が武田さんの活躍を見て改心し、お母様に「もう一度やり直す」と連絡、ご両親は籍を入れ直すという感動的な出来事がありました。
サッカーが家族の絆を取り戻してくれたのです。
武田さんは20歳まではお父様を憎んでいたそうですが、日本代表になれたのは苦労したおかげだと考え直し、最終的には感謝の気持ちに変わったと語っています。
武田修宏|出身中学・小学校
武田さんのサッカーのルーツは地元・浜松にあります。
小学校は浜松市内で、1年生からサッカーを始めました。
この少年時代からサッカーの才能は「天才少年」と呼ばれるほど際立っていました。
さらに、サッカーだけでなく、小学生の時には200m走とバスケットボールでも浜松市で3位になるなど、卓越した身体能力を持っていたようです。
中学校は浜松市立丸塚中学校の出身で、中学3年生の時には既にジュニアユース日本代表に選ばれ、シンガポールで開催された大会で得点王にも輝いています。
武田修宏|出身高校
武田さんが進学したのは、サッカーの名門として名高い静岡県立清水東高等学校です。
清水東高校は当時、東京大学にも合格者を出すような進学校であり、武田さんが進学を希望したのは、テレビで見た全国サッカー選手権で優勝する姿に憧れたからでした。
当時は越境進学が珍しく、武田さんは「故郷を捨てる裏切り者」だと新聞に叩かれたこともあったそうです。
しかし、入学後すぐに1年生ながらセンターフォワードのポジションを獲得し、全国高校サッカー選手権で準優勝に貢献するなど、類まれなる才能を発揮しました。
高校時代は勉強とサッカーの両立を厳しく指導され大変だったそうですが、この時期には「武田が練習に来ると風が止む」という、女性ファンが集まりすぎて風が遮られるという伝説も生まれています。
まとめ
武田修宏さんの人生を深掘りしてみて、読者の皆さんも驚いたのではないでしょうか。
Jリーグの華やかなモテ男という側面だけでなく、幼少期の壮絶な貧乏生活や、1.5億円の貯金トラブル、そして家族の絆をサッカーで取り戻したというドラマチックな背景を持つ、根っからの苦労人だということがよくわかりました。
彼は今でも独身を貫いていますが、それはピッチでは発揮できる「決断力」がプライベートでは慎重さへと変わってしまう、繊細な性格ゆえなのかもしれません。
メンタルが疲弊した女性たちを癒し、結婚へと送り出す「オアシス」としての役割を果たしている武田さん。
彼がいつか本当に心の底から安らげる相手と巡り合い、理想とする「普通の暖かい家庭」を築く日が来るのか、これからも彼の活躍とプライベートに注目していきたいと思います。
あの強靭なメンタルは、過酷な少年時代に培われたものだと考えると、彼のポジティブな姿勢の源泉を理解できた気がしますね。
