グエン・ドクさんの名前を聞くと、「ベトちゃんドクちゃん」として日本の歴史に深く刻まれた、あの感動的な分離手術を思い出す人が多いのではないでしょうか。
ベトナム戦争の深い傷跡を背負いながらも、彼は今、一人の父親として、そして日越友好の架け橋として、力強く生きています。
今回は、枯葉剤被害という過酷な運命を乗り越えたドクさんの「今」に迫り、彼の人生の軌跡を丁寧に追っていきたいと思います。
グエン・ドクwikiプロフィール|年齢は何歳?【ベトちゃんドクちゃん現在】
命の軌跡:グエン・ドクの現在地とプロフィール
まず、グエン・ドクさんの現在のプロフィールについて見ていきましょう。
彼は1981年2月25日にベトナム中部高原のコントゥム省で、双子の兄ベトさんと下半身がつながった結合双生児として生まれました。
ベトナム戦争時に米軍が散布した枯れ葉剤の影響だとされており、その壮絶な人生の始まりは多くの日本人の記憶に残っていますね。
さて、現在44歳(2025年時点)となったドクさんが、今どんな生活を送っているかというと、本当に多忙で頭が下がる思いです。
彼は現在、ホーチミン市内のツーズー病院で事務員として働いています。
ただ、公務員でありながら、その賃金は日本円にすると月々わずか3万円程度だそうで、家族を養うには到底足りません。
そのため、彼は休みの日には、雇ってくれるところがあれば何でも引き受けて、副業に励んでいるという現実があります。
また、彼は左足の欠損という障害を持ちながらも、妻と双子の子どもたちを養育する傍ら、闘病中の義母の自宅介護も担っています。
さらに、病院事務の仕事だけでなく、NPO法人「美しい世界のため」の代表や「DUC NIHON」の代表、そして広島国際大学の客員教授を務めるなど、平和親善大使としても精力的に活動を続けているのです。
「休みの日には何かを楽しむ時間がない」と語る彼の姿は、想像を絶する困難に直面しながらも、ただひたすら家族のために生きる、強く優しい「お父さん」そのものだと感じました。
グエン・ドク|経歴、分離手術の執刀医は?
17時間の奇跡:分離手術の真実と日本の絆
ドクさんの人生を語る上で欠かせないのが、1988年に行われた分離手術の経緯と、日本との深い絆です。
彼らが結合双生児として生まれた背景には、母親が終戦後、枯葉剤が撒かれた地域に移住し、汚染された井戸水などを飲んでいたことが指摘されています。
結合双生児の発生確率は非常に低いにもかかわらず、ベトナムでは戦後、同様の事例が激増しました。
運命の転機が訪れたのは1986年、兄のベトさんが急性脳症を発症し、意識不明の重体に陥ったことです。
下半身がつながったままでは二人とも命が危ないというギリギリの状態になり、1988年10月4日、ホーチミン市のツーズー病院で分離手術が緊急で行われることになりました。
当時のベトナムの医療体制では単独での手術は困難でしたが、日本赤十字社が支援に乗り出し、ベトナム人医師70名、日本人医師4名を含む総勢74名の大医師団が結成されました。
17時間に及んだこの世界的な大手術は、兄弟のどちらかを犠牲にすることなく、見事に成功しました。
麻酔から目覚めたドクさんは、隣にいつもいた兄がいないという不思議な感覚に襲われ、片言の日本語で「ナンダカナ、ナンダカナ」とつぶやいたそうです。
体が切り離された下腹部の激しい痛みの中で、彼は「ようやく自由になれた」という喜びと、「何とも言えない喪失感」の両方を感じたと言います。
分離手術だけでなく、その後の追加手術を日本の三重大学病院で受けたり、日本の医師との継続的な交流があったりと、ドクさんの人生はまさに日本との強い絆に支えられてきたのですね。
グエン・ドク|兄弟・ベトちゃんは?
兄ベトの犠牲とドクの使命
手術は成功したものの、兄弟のその後の人生は対照的でした。
弟のドクさんが高等職業学校で学び、病院事務の仕事に就いて社会生活を始めた一方で、兄のベトさんは手術前の脳症の影響から重い脳障害を抱え、寝たきりの状態が続きました。
ドクさんは2006年に結婚した後、妻のトゥエンさんと共にベトさんを引き取り、献身的に介護を続けます。
しかし、2007年10月6日、ベトさんは腎不全と肺炎を併発し、26歳という若さで亡くなりました。
ドクさんは今も、「私の人生は兄の犠牲の上で成り立っています」という重い言葉を胸に抱いています。
ベトさんの分まで長く健康で生きていくこと、そして平和や障害のある人たちのために活動を続けることが、彼の揺るぎない使命となっているのです。
グエン・ドク|結婚・子供は?
幸せの形:妻トゥエンさんと「フジ・サクラ」
過酷な人生を歩んできたドクさんですが、彼の現在の生活は愛する家族に囲まれ、確かな幸せを掴んでいます。
2006年、ドクさんはボランティア活動を通じて知り合ったグエン・ティ・タン・トゥエンさんと結婚しました。
ドクさんは、トゥエンさんの非常に家庭的で、自分の家庭を大切にするところに惹かれたそうです。
そして2009年10月25日には、人工授精によって男女の双子を授かるという、さらなる喜びに恵まれました。
ここで彼の日本への感謝の気持ちが形になります。
彼は子どもたちに、日本にゆかりのある名前を付けました。長男は富士山にちなんで「グエン・フー・シー(フジ)」。
そして長女は桜にちなんで「グエン・アイン・ダオ(サクラ)」と名付けられたのです。
この命名のエピソードは、日本からの支援を忘れないというドクさんの温かい気持ちの表れで、私も胸が熱くなりました。
双子の子どもたちは2025年現在16歳で、日本でいうと中学3年生くらいに当たります。
子どもたちも日本に関心を持っており、ドクさんは「とりあえずは元気でいてほしい。それからしっかり勉強して、安定した生活を送れるようになれば」と、真っすぐな父親としての願いを持っています。
グエン・ドク|両親、父親・母親は?
枯葉剤が引き裂いた家族と両親の苦悩
ドクさんの人生を深く見つめる上で避けて通れないのが、実の両親との関係です。
枯葉剤の影響が疑われる地で双子が生まれた際、親戚からは「化け物が生まれた。川岸に連れて行って燃やしてしまえ」と心ない言葉を浴びせられたと、母親のラム・ティ・フエさんは明かしています。
両親は生後まもなく、ベトさんとドクさんを病院に預け、その後離婚してしまいました。父親はそのまま失踪したとも言われています。
この行動は、当時の貧しさや、結合双生児という現実を受け止めきれない親の苦悩、そして戦争が生んだ悲劇の結果だったと想像せずにはいられません。
ドクさんは成長後に両親と再会していますが、彼と家族の日常を追ったドキュメンタリー映画では、再会後も両親との間に口数の少ない、埋められない溝がある様子が描かれています。
親子の断絶もまた、戦争が残した目に見えない深い傷跡なのだと、改めて考えさせられます。
まとめ
ドクさんが伝える「生きる」ことの重み
ドクさんは自身の人生を振り返り、「僕の人生には二つの大きなチャレンジがあります。一つは『生きること』。二つ目は『生き続けること』」と語っています。
現在、彼自身も腎臓や消化機能に影響を抱え、排尿バッグを一生使い続けるという非常につらい状況と闘いながら生きています。
それでも、彼は「経済的に豊かにはなってないけれども、日本との交流もあって、ある意味、恵まれている」と感じ、「自分よりも困っている人はいっぱいいるのなら、そのままほってはおけない」という強い気持ちを持ち続けています。
ベトナム戦争終結からもうすぐ50年が経とうとしていますが、枯葉剤の影響は今も世代を超えて残っており、戦争の後遺症は現在も存在しているとドクさんは指摘します。
彼の「生きること」「家族を守ること」「平和を願うこと」という言葉の一つ一つは、単なる美談ではなく、戦争の悲惨さと命の尊さを伝える、重く、そして希望に満ちたメッセージなのです。
現代の私たちにとって、ドクさんの存在は、平和が「与えられるもの」ではなく、「懸命に生き続けることで勝ち取り、守り続けるもの」なのだと教えてくれている気がします。
