日本のウイスキーの歴史を紐解くと、そこにはまるで一本の映画のような、情熱と涙に彩られた夫婦の物語が流れています。
「マッサン」という愛称で親しまれた竹鶴政孝と、彼を支え抜いたスコットランド人妻リタの歩みは、2026年の今もなお、琥珀色の液体の向こう側に鮮やかに息づいているのを感じます。
僕も一人の男として、政孝のような不器用で真っ直ぐな生き方には、理屈抜きで憧れてしまう部分があります。
この記事では、二人が遺した偉大な足跡から、あまり語られることのない家族の葛藤まで、その生涯を深く掘り下げていきたいと思います。
竹鶴政孝・リタの生涯
■ウイスキーに捧げた竹鶴政孝とリタの至高の愛と功績
竹鶴政孝の物語は、1894年に広島県竹原市の造り酒屋に生まれたことから始まりました。
家業を継ぐはずだった彼は、いつしか洋酒の持つ不思議な魅力に取り憑かれ、単身スコットランドへと渡る決意をします。
1918年、まだ見ぬ本場の技術を求めてグラスゴー大学で学んでいた政孝は、運命の女性リタと出会いました。
リタの弟に柔道を教えたことがきっかけで始まった二人の交流は、音楽や文学を通じて深い愛へと変わっていったのです。
家族の猛反対を押し切って1920年に結婚した二人は、日本で「本物のウイスキー」を造るという果てしない夢に向かって船出しました。
帰国後の道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
大不況の影響で勤めていた会社でウイスキー造りが頓挫しても、リタは英語やピアノを教えて家計を支え、政孝の夢を信じ続けました。
サントリーの山崎蒸溜所建設を指揮した後、理想の環境を求めて辿り着いたのが北海道の余市だったのです。
1934年に設立された「大日本果汁」は、ウイスキーが熟成するまでの間、リンゴジュースを造って糊口を凌ぐという苦難のスタートでした。
政孝は品質に一切の妥協を許さず、果汁100%にこだわった結果、当初はジュースすら売れない日々が続いたと言います。
そんな不器用なほど純粋な夫を、リタは毎日温かなお弁当を工場へ届けることで励まし続けました。
1940年、ついに最初の一滴が「ニッカウヰスキー」として世に出たとき、二人の目にはどんな景色が映っていたのでしょうか。
敵国出身というだけでスパイ容疑をかけられ、特高警察の監視下におかれた戦時中のリタの苦しみは、計り知れないものがあります。
それでも彼女は「私は日本人として死にたい」と願い、余市の地でその生涯を閉じました。
僕は、この一途なまでの夫婦愛こそが、ジャパニーズウイスキーを世界五大ウイスキーの一角へと押し上げた真の原動力だったのだと確信しています。
竹鶴政孝・リタの子孫・家系図
■血縁を超えて紡がれた竹鶴家の複雑な家系図
竹鶴家の家系を語る際、そこには血の繋がりを超えた「意志の継承」という側面が強く現れています。
実は政孝とリタの間には、授かった命を流産で亡くして以来、実子がいませんでした。
そのため二人は、二人の養子を迎えることで家庭の絆を繋いでいこうとしたのです。
一人目は、1930年に養女として迎えた山口房子(後のリマ)でした。
そして二人目が、政孝の実姉である延代の四男、つまり政孝にとっての甥にあたる威です。
威は1943年に養子として迎えられ、後にニッカウヰスキーの二代目社長としてその重責を担うことになります。
家系図を眺めると、政孝の生家である竹鶴酒造が今も広島で伝統を守り続けている一方で、政孝の血筋としての物語は威へと引き継がれていったことが分かります。
威の長男である竹鶴孝太郎は、現在ブランディングコンサルタントとして活躍しており、祖父母の物語を後世に伝える役割を果たしています。
こうした家族の形を知ると、単なる企業の系譜ではなく、魂を受け継ぐことの難しさと尊さを感じずにはいられません。
竹鶴政孝・リタの娘はリマ!
■ドラマでは語り尽くせない養女リマの孤独と葛藤
朝ドラでは明るく描かれていた娘の存在ですが、史実における養女リマの人生は、光と影が交錯する非常に複雑なものでした。
リマは政孝とリタの頭文字を合わせた名前を与えられ、二人の深い愛情を受けて育ちました。
しかし、思春期を迎える頃に勃発した第二次世界大戦が、彼女の運命を大きく狂わせます。
「敵国人の娘」として周囲からいじめを受け、さらには自分が養女であるという事実に直面し、彼女の心は次第に家族から離れていきました。
リタが英国流の厳格な淑女教育を施そうとしたことも、日本の社会に馴染もうとしていたリマとの間に溝を作る原因になったのかもしれません。
1945年、わずか15歳で彼女は実の母親を探すために家出し、家族との関係は決定的に悪化してしまいました。
政孝の回顧録に彼女の名前が一切記されていないという事実は、当時の親子の断絶がいかに深いものであったかを物語っています。
晩年になってリタとの再会を果たし、関係は多少修復されたものの、彼女が歩んだ孤独な道のりはジャパニーズウイスキーの歴史の陰に隠れた、切ない真実と言えるでしょう。
もし自分が彼女の立場だったら、あんなにも激動の時代にどこに居場所を見出しただろうかと、胸が締め付けられる思いがします。
竹鶴政孝・リタの会社の相続・後継者は?
■ニッカの魂を受け継いだ後継者たちの情熱
政孝の遺志を継ぎ、ニッカウヰスキーをさらなる高みへと導いたのは、養子の竹鶴威でした。
威は広島工業専門学校で醸造を学び、北海道大学で応用化学を修めた、まさにウイスキー造りのエリートとして政孝に呼び寄せられました。
彼は政孝の技術を一番近くで吸収し、二代目マスターブレンダーとして、世界を驚かせる数々の名作を世に送り出しました。
1962年に誕生した「スーパーニッカ」は、亡きリタへの鎮魂の想いを込めて政孝と威が造り上げた、ニッカの象徴とも言える商品です。
威は政孝のような豪放磊落なカリスマとは異なり、緻密な理論と誠実な人柄で、近代的な企業としてのニッカを築き上げました。
その後、ニッカウヰスキーはアサヒビールの傘下に入ることになりますが、その製造プロセスや品質へのこだわりには、今も竹鶴親子のDNAが脈々と受け継がれています。
政孝が孫の孝太郎に言い残した「国際結婚はするな」という言葉は、愛するリタが日本で味わった苦難を二度と誰にもさせたくないという、深い愛情の裏返しだったのでしょう。
2026年現在、ニッカのウイスキーが世界中で愛されている光景を、政孝や威は天国でどんな顔で見つめているのでしょうか。
まとめ
■2026年に私たちが竹鶴夫婦から受け取るべき遺産
竹鶴政孝とリタの物語を辿ってくると、最後に残るのは「信じる力」の強さだと感じます。
言葉も通じない異国の地で夫の夢を自分の夢としたリタ、そしてその愛に応えるために生涯をかけて琥珀色の芸術を追求した政孝。
二人が遺したのは、単なるウイスキーという酒ではなく、何があっても揺るがない信念の美しさではないでしょうか。
たとえ血の繋がった子孫による経営ではなくなっても、彼らが愛した余市の蒸溜所には、今も当時のままの情熱が漂っています。
この記事を読んでくださった皆さんが、今夜ウイスキーのグラスを傾けるとき、その一滴に込められた二人の喜びと悲しみに、少しだけ思いを馳せていただけたら嬉しいです。
それはきっと、ただのお酒を、人生を豊かにする特別な物語に変えてくれるはずですから。
