映画『国宝』の深淵へ!親分殺害の裏側と歌舞伎界の「血」と「芸」の物語
いや~、映画『国宝』、本当に凄かったですね。
観終わってからもしばらく余韻に浸ってしまって、頭の中が歌舞伎の世界でいっぱいになってます。
特にあの、主人公・喜久雄の父親である立花組の親分、権五郎が撃たれたシーン。
衝撃的でしたよね。
そして、その後の展開について、いくつか疑問に思っている方も多いんじゃないでしょうか。
今回は、皆さんの心に渦巻く「なぜ?」に、僕なりの考察を交えながら迫っていきたいと思います!
国宝(映画)ネタバレ解説|権五郎(喜久雄の父親)を弟分・辻村はなぜ襲った?
親分を撃った辻村の真意とは?
まず、喜久雄の父、権五郎親分を撃ったのが、弟分の愛甲会の辻村だったというのは、映画を観た皆さんならご存知の通りですよね。
しかし、映画の中では、なぜ辻村が親分を撃ったのか、その直接的な理由ははっきりと描かれていませんでした。
僕も最初は「一体どういうことなんだ?」と混乱しました。
ただ、原作の描写や、映画を深く考察している人たちの意見を総合すると、辻村にはいくつかの動機があったように感じられます。
一番に考えられるのは、辻村が権五郎を「目の上のたんこぶ」のように感じていた可能性です。
権五郎親分の存在が、彼自身の勢力拡大や、あるいは組全体の方向性にとって邪魔だと判断したのかもしれません。
もう一つ、僕が強く感じたのは、辻村が幼い頃から喜久雄のズバ抜けた才能を密かに見抜いていたという点です。
ヤクザの世界では、いずれ権五郎の存在が喜久雄の将来にとって足かせになると考えていたのではないでしょうか。
立花組を解体し、喜久雄を任侠の世界から解放したいという、ある種の「裏の愛情」のようなものがあったのかもしれませんね。
ラストシーンで辻村が自ら喜久雄に真相を告白する場面も、喜久雄は多くを語らず話をそらしていました。
これは、喜久雄がとっくにその事実を知っていたからなのか、それとも芸の道を極めた彼にとって、過去の因縁はもはやどうでもいいことになっていたのか。
どちらにせよ、深い業を感じさせられます。
国宝(映画)ネタバレ解説|半二郎はなぜ口外しなかった?
権五郎親分が撃たれた現場には、偶然にも花井半二郎が居合わせていましたよね。
彼がその事実を警察や周囲に口外せずにいたのは、なぜだったのでしょうか?
これもまた、映画だけでは汲み取りにくい部分ですが、考察すると見えてくるものがあります。
まず、半二郎は辻村に何らかの「恩」があったと考えられます。
具体的な内容は描かれていませんが、歌舞伎界の重鎮である彼が、ヤクザの世界の人間から受けた恩義というのは、僕たちには想像もつかないほど重いものだったのかもしれません。
そして何よりも、半二郎は喜久雄という稀代の才能を「守りたかった」のだと思います。
喜久雄が父親の仇討ちに出て、再び警察沙汰になることを避けたかったのでしょう。
半二郎は、喜久雄が任侠の世界で復讐を果たすのではなく、「芸の道を極め、その才能で世間を見返すことこそが、真の仇討ちになる」と信じていたのではないでしょうか。
だからこそ、彼は喜久雄を自らの家に引き取り、歌舞伎役者として育てる道を選んだのだと僕は解釈しています。
この決断が、喜久雄のその後の波瀾万丈な人生を決定づけることになります。
『国宝』が描く「血」と「芸」の因縁
この映画は、喜久雄の父親殺害の真相だけでなく、歌舞伎界の「血」と「芸」という根深いテーマを深く掘り下げています。
喜久雄はヤクザの血を引くものの、歌舞伎の才能に恵まれました。
一方、花井家の御曹司である俊介は、由緒正しい歌舞伎の血筋を持ちながら、喜久雄の圧倒的な才能に苦悩します。
映画では、原作小説の壮大な物語を約3時間に凝縮しているため、省略された部分も少なくありません。
特に、喜久雄の幼馴染である徳次の存在は、原作では非常に重要です。
映画では少年時代に少し登場するだけで、成人してからの彼が喜久雄を陰で支え、時にはヤクザの筋を通して守り抜く姿は描かれませんでした。
徳次は喜久雄にとって血の繋がらない兄のような存在であり、彼の行動は喜久雄が裏の世界から足を洗おうとする生き様を象徴していました。
彼らの関係がもっと描かれていれば、映画にさらなる深みが加わっただろうな、と個人的には惜しまれます。
また、喜久雄が歌舞伎の頂点に立つために「悪魔と取引した」という発言は、彼の芸への常軌を逸した執念を表しています。
この「芸の呪い」とも言える覚悟は、彼が家族や恋人といった個人的な関係性を犠牲にして、ただひたすらに芸の道を進む要因となったのかもしれません。
現に、週刊誌にヤクザの出自や隠し子のことが報じられた際、喜久雄は一時的に歌舞伎界を干されることになりますが、その原因は「実子を追い出した」と報じられたため、俊介の血筋を重んじる一座の人間がリークした可能性も指摘されています。
このあたりも、「血」が持つ影響力の恐ろしさを感じさせるエピソードですよね。
『国宝』は、まさに「芸は血を凌駕するのか」という問いを観客に投げかけ続けます。
喜久雄が血の呪縛から逃れ、才能を極めることで「国宝」と呼ばれる存在になったことは、彼自身の人生の勝利であると同時に、彼が背負ってきた大きな犠牲の証でもあります。
僕は、この作品を観て改めて、芸術に身を捧げる人間の生き様の壮絶さと、その裏にある孤独や葛藤に強く心を揺さぶられました。
まとめ
皆さんも、もしもう一度映画を観る機会があれば、今回の考察を頭の片隅に置いて、彼らの人生の深淵を味わってみてください。
きっと、新たな発見があるはずです。