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俺ではない炎上(映画)ネタバレ考察|あらすじ・伏線・最後の結末は?

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『俺ではない炎上』徹底解説!SNS時代の恐怖と巧妙な伏線の真実

SNSのトレンドを追っている皆さん、こんにちは。

今回は、浅倉秋成さんの傑作ミステリー小説を原作とした、阿部寛さん主演の映画『俺ではない炎上』について、深掘り考察していきますね。

もう、観終わった後に「やられた!」と唸るしかない、現代社会の闇をえぐるような超スリリングな作品でした。

「SNSで人生終了!?」なんていうキャッチコピーは、他人事じゃない怖さがありますよね。

単なる逃亡サスペンスで終わらない、この物語の巧妙な仕掛けと、その裏に隠されたメッセージを、隅々まで一緒に見ていきましょう。

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俺ではない炎上(映画)ネタバレ|あらすじ

■ネット地獄の開幕:あらすじ

まず、物語の導入はシンプルかつ強烈です。

主人公は、大手ハウスメーカーの営業部長である山縣泰介という男。彼は50代ですが、仕事はバリバリこなし、家族を愛するごく普通のサラリーマンとして描かれています。

そんな彼がある日突然、人生のどん底に突き落とされてしまうんです。

彼の名前と誕生日を使ったSNSアカウント(@taisuke0701)に、女子大生の遺体画像が投稿され、「殺人犯」だとネットで名指しされてしまうんですね。

泰介本人はTwitterなんてやったこともない、インターネットに疎い人間なのに、実名、顔写真、個人情報があっという間に拡散されて大炎上。

デマだといくら訴えても、会社も、友人たちも、そして家族でさえも、誰も彼の無実を信じてくれません。

日本中の人間が敵になってしまい、泰介は「濡れ衣を着せられた男」として、必死の逃亡を強いられることになるんです。

ここ、本当に現代の恐怖をそのまま描いていて、私たちが何気なく使っているSNSが、どれほど簡単に個人の人生を破壊するかをまざまざと見せつけられます。

俺ではない炎上(映画)ネタバレ|ストーリー解説

■孤独な逃亡者:終盤までの展開

泰介の逃亡劇は、まるで「令和版・逃亡者」のようなスリル満点の展開が続きます。

彼は車を乗り捨てて逃げるんですが、意外なことに彼の趣味はマラソン。鍛えられた体力のおかげで、警察の予想を軽々と超えて逃げ続けることができる、っていうのが、ちょっと笑えるユーモラスな要素でもありました。

逃亡の途中で、彼の自己認識と他者の評価の大きなズレが浮き彫りになっていくのが、この物語の肝なんです。

泰介は「自分は人望があり、尊敬されている」と思い込み、助けを求めて元部下の家を訪ねます。

しかしそこで突きつけられたのは、「あなたは皆から嫌われていた」という冷酷な真実。泰介は、自分が正しいと思っていた人生の選択が、実は多くの人に圧力をかけ、恨みを買っていたのかもしれないと気づかされ、精神的にも追い詰められていきます。

さらに追い打ちをかけるように、泰介の自宅の物置から2体目の遺体が発見され、容疑は深まるばかり。

そんな中、泰介は会社に届いた、真犯人からのものと思しき謎の封書を見つけます。そこには「逃げ続けろ」「辛くなったらこの座標へ」というメッセージと、緯度・経度の数字が記されていました。

物語は、泰介の逃亡と、彼を追う大学生の住吉初羽馬、そして被害者の親友だと名乗る謎の女子大生サクラ(泰介の娘・夏実)の視点が並行して描かれます。この多角的な視点こそが、後に明らかになる叙述トリックの巧妙な土台となっているんです。

俺ではない炎上(映画)ネタバレ|最後の結末は?

■絶望からの叫び:最後の結末

物語は、謎の座標が示す場所、泰介の家族にとって思い出の地である「からにえなくさ」の廃墟へと収束していきます。

ここで泰介は3人目の女子大生の遺体を発見し、完全に心が折れてしまうんです。そして、過去に娘を罰するために一晩倉庫に閉じ込めたことへの復讐を仄めかすメモを読み、自ら命を絶とうとします。

その絶体絶命の瞬間に、廃墟に飛び込んできたのがサクラ、つまり娘の夏実でした。彼女が泰介に「パパ!」と叫び、彼を助け出すシーンは本当に胸が熱くなりましたね。

そして、最大の驚きが訪れます。

泰介に同行していた取引先の若手社員、青江拓哉(長尾謙杜)こそが、真犯人だったんです。夏実(サクラ)は彼を「えばたん、やめて」と本名で呼びます。

そう、青江は10年前、夏実が小学生だった頃のクラスメイト、江波戸琢哉(えばたん)だったんですね。

映画版の青江(えばたん)は、警察官だった父が援助交際で職を失い、母の旧姓を名乗っていました。彼の動機は、援助交際で金を巻き上げる女性たち(彼が考える「悪」)を断罪するという歪んだ正義感と、10年前に夏実が父に倉庫に閉じ込められた一件への根深い逆恨みが入り混じったものでした。

彼は、泰介に面と向かって怒りをぶつけられなかった自分の無力感と悔しさを、泰介への復讐という形で晴らそうとしたわけです。

事件が解決した後、病院で泰介は妻の芙由子、娘の夏実と向き合い、誰もが「悪いのは私だ」と互いを思いやるんです。

自分が悪くないと強硬に主張していた泰介が、最後には「俺が悪かった」と心境を変化させ、家族の再生という希望を見せてくれるラストは、この作品が単なるミステリーで終わらない理由だと思います。

俺ではない炎上(映画)ネタバレ考察|伏線

■ミスリードの仕掛け:様々な伏線の詳細な考察

この映画(原作小説)の巧妙さは、現代的なテーマと、クラシックなミステリーの技法である叙述トリックが融合している点に尽きます。

【時系列トリックの正体】

多くの観客や読者が「まさか!」と思った最大の仕掛けは、視点人物の時系列が意図的に操作されていたことです。

主人公の泰介や大学生の住吉のパートは「現在」の出来事ですが、娘の夏実とえばたんのパートだけは、すべて10年前の小学生時代を描いていたんです。

この時間軸のズレに気づかせないために、作者は現在と過去で似たような状況(例:泰介の件で学校を早退する夏実、祖母の家に避難する家族など)を配置し、読者の脳内を混乱させているんです。

【アカウント乗っ取りの真相】

事件の発端となった「たいすけ@taisuke0701」アカウントは、実は10年前に小学生の夏実が、ネットで人と会うことを否定した父に、ネットの良さを証明するために作ったものでした。アカウント名の「0701」は泰介の誕生日で、ゴルフ好きの父のためにゴルフ仲間を作ってあげたかったという、なんとも健気な動機だったんですよ。

このアカウントを、夏実から個人情報を聞き出していたえばたん(青江)が乗っ取り、犯行に使ったわけです。

【鍵とパスワードの流出】

犯人が泰介の自宅に侵入し、2人目の遺体を倉庫に遺棄できたのは、小学生の夏実がえばたんに、家の合鍵の隠し場所(植木鉢の下にあるダイヤル錠の箱)と、暗証番号(父の誕生日0701)を教えてしまっていたからです。

子ども時代のちょっとした秘密が、10年後に巨大な復讐の道具として使われるという展開は、まさに背筋が凍るようなリアリティがありますよね。

【日本語の違和感という伏線】

犯人がSNSに投稿した文章には、「食べれない」(ら抜き言葉)や「文字どうり」(誤字)といった、泰介が日頃から厳しく指摘する「ポンコツな日本語」が使われていました。

泰介は言葉遣いに厳しい人間だったので、この日本語の違和感が、泰介が犯人ではないという無実の証明の鍵になります。映画では、この違和感を妻の芙由子が指摘することで、家族の絆が描かれました。

ただ、映画版の真犯人である青江(えばたん)は、もともと泰介に日本語の間違いを指摘されても直せないタイプだったので、彼がそのまま「ら抜き言葉」を使って投稿を続けたのは、彼自身の思考の粗雑さを示しているという考察もあって、なるほど!と思いましたね。

俺ではない炎上(映画)|評価

■現代社会への問い:映画の評価

この映画は、ミステリーとしてだけでなく、現代社会に対する鋭い警鐘を鳴らした社会派作品としても非常に高く評価されています。

平均点も7.10点と高評価ですし、個人的にも、SNSをめぐるサスペンスとしてはトップクラスの面白さでした。

【誰でも加害者になりうる怖さ】

この物語の核にあるのは、「俺は悪くない」という言葉に象徴される、現代人の自己正当化の心理です。

泰介は「自分は間違っていない」と信じて疑いませんでしたが、実は周囲に恨みを買っていました。炎上を拡散した大学生の住吉初羽馬も、軽い気持ちでリツイートしただけで、自分が泰介を地獄に突き落とした「諸悪の根源」であるという自覚がありませんでした。

誰もが「自分は正しい」「自分は悪くない」と主張し、責任を他者に押し付け合うことで、事件は加速していくんです。この構造は、私たちが日常的に見ている「炎上」そのもので、ゾッとしますよね。

終盤、サクラ(夏実)が住吉に向かって「あんたが諸悪の根源だからだろうが!」と怒鳴りつけるシーンは、SNSで無責任な発言を繰り返す私たち読者・観客全員に向けられた、作り手からの強烈なメッセージだと感じました。

【映像化の妙とキャスティング】

阿部寛さんが演じる泰介は、シリアスな状況でありながら、大柄な彼が隠れきれない姿や、逃亡の途中で服が破けてパンツ一丁になるコミカルさも相まって、物語の緊迫感を独特なユーモアで和らげていました。

芦田愛菜さんが演じたサクラ(夏実)は、物語の真相を握るキーパーソンとして、その知的な眼差しと、終盤の鬼気迫る演技が本当に素晴らしかったです。彼女の演技によって、叙述トリックを乗り越えて、娘の強い信念が観客に伝わってきました。

原作の叙述トリックを映像でどう成立させるのか、という難題を、時系列の編集や、キャスティング、そして最後に犯人(青江)の役割を改変するという思い切った手法でまとめ上げた手腕は見事だったと言えるでしょう。

この映画は、観終わった後で「犯人は誰だ?」というミステリーの興奮だけでなく、「自分は加害者になっていないか?」と、深く自省させられる力が宿っています。

私たちも、日常の中で「俺は悪くない」と思う瞬間はたくさんあるけれど、一度立ち止まって「もしかしたら、僕が間違っているかもしれない」と謙虚に考えることこそが、このSNSの炎上地獄から抜け出す唯一の道なのかもしれませんね。

ぜひ、この傑作サスペンスを見て、皆さんの心の中にある「正義」と向き合ってみてはいかがでしょうか。

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